元旦のこと、驚いたね。今年はいい年に、とかいう話をして、夕方になったら、まあなんということか。もう連日、現場の状況を報道で目にします。本当に何と申しましょうか、もうお見舞い申し上げるしかありません。今も随分、お道で行っている人が多いですが、頑張っておられます。せめて我々は、物を送るのもダメだしね、募金かなと思いますね。募金っていうとね、大きな募金するというのを聞いたら、私のこんなものって思ってしまうんですが、でもやっぱりやらんよりやった方がいいと思うのでね、募金してもらえたらいいと。例えば100円したらね、1億人の人がしたら100億円になるなって思えばいいんですよ。1000円する時は、1億人の人で1000億円なるんだな、1万円したら1兆になるんだな、とかね。
まあだから私も寄付する場面が結構あってね、あっちの会こっちの会で。それからコンビニとか、ちっちゃい募金箱を置いてますよね。小銭とかそんなのをするわけだけどね。こういう寄付の文化っていうのは、あんまり日本に育ってないっていうんですけどね。 国によったら、集まりがあれば必ずこう帽子を回して、でもみんな本当にちょびっとなんですよ入れるのは。チャリンチャリンチャリンと。そんなんなんだけどね。やっぱりやる文化があるんですね。寄付をするっていうのは、本当に小さいけどね、私はいいことだと思いますので、ここ全体で今日は集めるとかそういうことはしませんけどね、それぞれの持ち場でやったらいいと思います。
時報にも載ってるし、本当にわずかでも国民全体になったら大きいからね。そんな感じの一年の始まりでした。
■ ようぼくが、ようぼくとして
今年も年祭活動二年目、あと2年っていうわけですよね。まあ色々思わされてしまいますけども。年祭活動について私いつも思うんですけどね、年祭活動ってね教祖の年祭、そうしたらこの額ですね(神殿上段の額を指す)。 これは教祖が世界一れつたすけたいと、ろくぢに踏み鳴らしに出られた『元一日』ですよね。それから『一歩前進』するしかない。どの旬も、我々は常に、ああ元一日だ、一歩前進だ、また元一日だ一歩前進だ、これを毎度繰り返してると思うんですよ。 今回だけじゃありません。自分の人生においても、これが一歩前進だな、という風に思うんでね。ですから、年祭のことをちょっとね最初にしたいと思います。 いつも地方講習会とかをやってました。今回はないです。 地方講習会と言ったら、あちらこちらで眠ってるような、よふぼくに参加してもらって、あなたもよふぼく私もよふぼく、という風に、よふぼくが目を覚ますような講習会をやっていたんですね。 それはとても大切で、この目的は年祭においてあなたも教祖の用木として、あなたも御用がありますよっていうことを伝えるためなんですよ。だから、それぞれの我々が一人一人、みんな御用があるということが伝わってくるために、この三年千日、そうやって広げてるわけですね。 ある時、私は助手席に乗ってて、今の真柱様が後ろに座っておられて、地方講習会が始まったばっかりの頃ですね、もう20数年前だけど、真柱様のそういう講習会をする思いを尋ねてみたの。どのような思いでなさいますか、と。 すると、ちょっと思い切った質問なもんだから、言った後ちょっと「しまった、こんなこと伺って」と思ってね、案の定お答えがないんですよね。しばらく沈黙があってね、その時運転してたのは修君(清真布会長)かな。 しばらくして答えられたのが、「よふぼくがよふぼくとしていてくれたらいいんです」って。よふぼくがよふぼくのように生きてもらえたら、よふぼくのようにあってくれればいいんです、って。そのために地方講習会もするし、年祭のことも色々するということだったんですよ 私はもう忘れられないね、本当に。ドキドキしちゃった。変な質問しちゃったな、と思って。我々がその頃地方講習会に回ってる立場だったから、今更、真柱様に「どういう思いでございますか」などという愚問を、と。でも、そうやってお答えになったね。よふぼくがよふぼくとしてあってほしい、それに尽きるんだな、と思ってね。 よふぼくってなにかなって考えたね。この世界を陽気の世界にする、そのよふぼくっていうのは材料なんですね。柱であり、畳であり、天井であり、用材ですね。陽気暮らしの世界にする用材であってほしい、それぞれが、ということに尽きる。年祭に限らず、常々それだろうな、という風に私も感じております。
■ 信仰者の、いい「におい」とはなにか
今天理教の人ってね、意外と大勢いるんですけど、最近ちょっと静かになってね、あちらこちらあんまり見えないようになってんだよね。
案外岩見沢市内でも辿ってくと、実はこうだったああだったってね、天理教の人いっぱいいるので、よふぼくも相当いるはずだけども、割と黙ってるね。
これは神様から見たら、ちゃんと分かってると思うね。神様はご存知だ、あんたもよふぼくだ、こっちもよふぼくだ、そういう風に光ってる存在であってほしいわけですね、神様から。
いるけれども、よふぼくっていうその意識がなけりゃ、もう一つだよね。だからこの年祭の時、自分もよふぼくなんだな、と。私なんか特に、大教会長を交代してますから、一よふぼくとして、どうかなって、やっぱり思うね。
札幌の教会で、うちの奥さんが会長さんだから、私は会長さんを支えて、という役割だね、やっぱり。
私は基本に帰って、よふぼくってなんだろうって。
それは、周りの人にちょっとでも幸せ な方向へ動いてもらう、心が動いてもらうような何かができれば、よふぼくの御用なんだなと思うんです。
よく、においがけ・おたすけ、と言いますよね。においがけ・おたすけって言うと、なかなか難しいようなんですけど、良いにおい、教祖から頂いた良い匂いが出てれば、においがけになるわけだから。でね、じゃあ教祖から頂いてる、我々の信仰してる人の良いにをいっていうのは何だろうね。
信仰してる人の良いにをいとは何か、考えてみたんですよ。じゃあ2つ浮かんだ。
1つは、生きてること、生かしてもらってることがありがたい、嬉しい、っていう、生きてることの感謝だ。感謝がこう溢れてる、これは魅力がある人だな。感謝はしてるけどね、溢れるぐらいってすごい事だと思う。
それから今度は、その喜びや感謝を、誰かにお伝えしたい、誰かに返したい、という風なものが、何かで人に返したい、という気持ちが溢れてるというのは、これ良いにをいだなと思う。
私が信仰してる人の良いにおいを2つ見つけた。その1つは生きる喜び、感謝に溢れてる人。もう1つは、その喜び、感謝を誰かにお分けしたい、あの人にも、ってそういう思いが出てる人。魅力的だな、信仰者の良いにおいだな、という風に、見つけたわけです。
そういう人ね、皆さんもそうだと思うけどね。大体信仰してたらそうじゃないかな、と思うんですよ。
そういうことについて、私は自分を振り返った時、そうでない時もいっぱいあるね。良いにおいが溢れてない時は、ありますね。そんな時はどうするか。
そんな時は、「教祖」と唱えるんですよ。おつとめの時、毎度唱えてるけどね。親神様、教祖、唱えてるけど、普段の時でも「教祖」って唱える。
それは自分の中で良いにおいが失われかけてるような時なんか、それを唱えて繰り返すと、若干良いにおいが戻ってくると思うんです。これは誰でもやってみたらいいんじゃないかな。
人と出会う前にやると、いいものが出ますよ。悪いものより、いいものが出ます。それから、難しい相手と今日は難しい相談しなきゃならないな、ひょっとしたら喧嘩になるかな、という時はやっぱりお願いのおつとめをしてから会う。そうすると、自分の中の悪いところは神様が抑えてくださって、教祖のおかげでいいもん出させてもらえます。
そうするとね、においがけとかおたすけは、特別じゃなくなるわけです。要するに、皆さん年祭活動っていっても、自分の心作りをすればいいわけだ。教祖と唱える、また喜び、生きる感謝。何か人のために、と思って通れば、毎日がにをいがけ、毎日がおたすけになる。そういう風に考えております。
■ においがけ、おたすけを
うちの奥さんね、病院に入院したら、必ず友達ができるのね。病室の中は仕切ってあって、カーテン開けちゃだめって言われてるんだけど、やっぱり友達になって。
退院したら、その友達が札幌の教会に遊びに来るわ。泊めてくださいって。いいよ、泊ってったらって。これもにをいがけだよね。
その人は「ワシ、天理教ならんからね」って言ってくるの。天理教ならんけども、遊びに行っていいかいって。今度天理っちゅうところ行こうか、っていう話になってきた。私天理教ならんけどね、天理行ってもいいよ、って言うんだもんな。にをいがけって、そんな片肘張るとかえって難しいけど、やっぱりそういう時は、私はいいにをいが出てたんじゃないかと思うね。
信仰をしてる人は、みんなお互い持ってるわけだけど、そういうものが出てると、相手さんが引きつけられる魅力になってくるんじゃないかな、と思うので、これもにおいがけだなと思う。
だから年祭活動、あと2年ってね、何をさせてもらうか、具体的に言えば、やっぱり皆さんお互い1人ぐらいおぢば帰り、年祭までに連れて行きましょうって、こう言いたいわけですよ。
また、おたすけを1人か2人目標、この人っていう人を見つけて、どうあれ通いましょう、ってこれを言いたいけどね。
でも、それをしなかったら、じゃあ何もないか、ってそんなことはないね。皆それぞれ頑張ってんだから、いいとこあるわけですから、それぞれいろんな面で、心苦しい面があったり、今ちょっとモヤモヤしてる感じはありますね。
さあやろう、ったらもう、人に会えない、病院行ったら行かれない、とにかく会いに行かれないっていうの。もうなんかモヤモヤして、それでもこの頃ようやく少し良くなってきているので、これはやれるんじゃないかな、と思いますね。
■ 常に新鮮な心で
これは自分に対してのことなんだけど、『バカの壁』ってあるでしょ。養老孟司の本で、300万部ぐらい売れたのかな。
バカの壁って何だろう、と思ったら、いろんなことやってきて、私はもう分かってるよ、ってこれのことみたいなんだよね。 私も長年やってきてね、いろんなことしてきてる。こんなこと前もやったから、とかどうしてもそれがよぎるわけさ。
そうすると養老孟司の言う、バカの壁なんだよね。そういうことは分かってるよ、もう言わんでも分かるよ、と。それは非常に、自分の進歩、発展や成長をストップさせる。
養老さんが解剖学者でしょ。東大の医学生に対して、出産の時のメカニズム、分かってるかって聞いたら、みんな頭いいからね、「はい、分かってます」って言うんだけど、そいつらが1番分かってない、って言ってね、その本に書いてあったんですよ。
とにかく分かってるつもりなってるやつが、一番性質が悪い、とそれがバカの壁だと。
それで私は、自分に言ってるわけだけど、分かってないな、大体。 おたすけさせてもらっても、辛いでしょう、大変でしょう、ってその辛い大変なことは分かってないからね、経験がないから。自分が病気しないと分からないんだ。
だから、本当に大変なことは、「よく分かりますよ」って口で言うけどね、実際分かってないわけ。だから分かってないということについて、自分もそういうバカの壁あるなあ、と思ってね。
皆さんもね、そういうものあれば、そんなの前もやったことから分かってますよ、っていうのは、この年祭活動についてはよくないと思う。
だって前の年祭もあったし、その前の年祭もあったし、みな経験してるわけね。 でも時代も変わってるし、相手も変わってるし、同じじゃないんですよね。自分の立場も全然変わってるしね。
それを思うと、毎度新しいはずなのに、どうしても過去の経験が邪魔をするってことがあり得るわけね。自分に対して、常に新鮮にあるためにはバカの壁を崩さなきゃだめだ、と言い聞かせております。
■ 感謝、お掃除、種まき
教誨師として、札幌の刑務所へ毎月行ってます。相手さんがいるわけだ。本当に待ってくれてんだよね。 「毎月1回楽しみです」とか言ってね。中にはおぢばに帰った人もいるわけさ。でも三年千日頑張れ、と言えないでしょ。
でも彼らなりに、どうやってこれから人生生きていくかで、僕は「やっぱり毎日が大事だよ」って言うしかないですね。
毎日っていったって、その中何をしたらいいかって、まず感謝でしょ。まず感謝だよって、お前感謝したい相手いるだろうって。
そうしたら「いない」って人もいたよ。うわあすごいな。
でも大概いる。親だとか世話になった人とか、色々いる。じゃあ思い出してさ、毎日「ありがとう」ぐらい心で唱えたらどうなんだって。毎日ご飯食べててね、ご飯だって、いろんな人が作ってくれて。なんでいただきますと言うかといえば、命をみんな頂いてんだから。
毎日感謝しなかったらそりゃ命に反逆されて、出る時は逆なことになって、命ってみんな繋がりがあるんだからね、感謝して食べていくのが当たり前だな、っていうような話するわけさ。
感謝とお掃除と種まきを 言うわけね。
お掃除というのは、やっぱり八つのほこりを言うね。八つのほこりを伝えて、それは人間の取るに足らないようなもんだけども、それが積もっていくと、いろんな悪いことになったりするし、毎日お掃除するんだ、って話をするわけね。
で次は種まきだよ。感謝とお掃除ができたら、人間としては立派だ。人間として立派だけど、これからもう1歩前行こうと思ったら、種まきしなきゃだめなんだ。どんな種まきかっていったら、誰かに喜んでもらうか、誰かの幸せに誰かのことを祈る。
そんな話をすると、この場所でそんなことできません、って言うんだわ。毎日つまらんし、どうやってやったらいいんですかって話になるわけですよ。
それで僕も困っちゃうんだけど、あんた方の経験、こっちは経験してないからな。それでも、人が悩み聞いてあげたりさ。看守の人ってね一生懸命やってくれてる人に、ありがとうっていつも言ってんのか、って聞いたら、大体ぶすっと膨れてるわけだからね。そんな話をしてね、やっぱり毎日が大事。それでもね、いくら頑張っても、その1つのことができないわけね。
我々はありがたいね、お互い塀の外で、させてもらったことは現れてくるし。それでも、やれることはあるじゃない。塀の中の人でも、頑張ろうとしてる。お前、迷惑かけた人に手紙出せよ、とかいう話もしてるんだよね。「出しました」って人もいたね。
■ 教祖を思い、両親を思い
私達は、お互い何をさせてもらうか。なぜ今信仰してるかって、やっぱり私らは教祖に出会ったから、恩返しだね。
私達は助けられて藤田家が今ある。いろんなことで助けられた。結果その先に、教祖の教えに触れて、「あ、これはもう、やらんでいられないな」っていうのが、まあ今だね。
だから恩返しっていうことが大きいんですけど、教祖に出会ったんですから、この年祭活動ね、教祖にどうやったら喜んでもらえるか、そんなすごいことしなくたって、続けられるようなことをさせてもらわんきゃならんと思うね。
私はこう、華々しいことはないな、と。自分でもおたすけがすごく怖かったとかね。そういうこともなかなかないな、と思いつついるわけなんだが、今どのようなことが自分に残ってる仕事かな、って言うと、まあなんかの面倒お世話ができたらいいな、っていう風にね。あと、そういうことは好きなのかなってね。
私も、うちの奥さんも、人の相談を聞いたり、お世話事は嫌じゃないな。
それと、京都の庭師さんのところはずっと通ってんだけど、まあ悩み苦しみをいつも言うわ。私2時間ぐらい聞くのに、2時間掛けて行く。向こうで2時間聞いて、帰り2時間で合わせて6時間と、ため息出るけどね。
それをうちの母が毎月やってたんだな。そう思うと、ちょっと坂道だけど、亡くなる数日前も行ってたからね。歩きながらいっつもそれ思いながら、歩いてるわけで。
結果それによって進歩があるかと、その家においてね、何もないわけだね。
だんだん年も8、90近くなるし、家がだんだんもう疲弊してくわ、子供らもそっぽ向いてるわ。プラス面があんまり見えてこないだけども、そのお母さんが言うには、1ヶ月に1回、私本当に誰にも言えない話なんです、もう情けない話を聞いてもらって、やっと今日も家出てかないで住んでます、やっと生きてます、って言うんだわ。
大概帰る時ね、何の進歩もないけれども、じゃあ自分が何かの役に立ってんのかなって。そっから良くなってくわけでもないんですよ。
年も取ってく、しんどくなり体はひどくなるし。ただ話を聞いて、いやあ今日もありがとうございました、お互いそんなんだけども、なんでやってるかというと、やっぱり教祖を思い、それを思ってた母親も父親も思い出すし、そういうことで我々はやってんだなっていうのが、しみじみ今思うところです。
■ 日常は、恩返し
この9日に、苫小牧行ってきたんだわ。苫小牧には大教会にいた、伊藤徳博君て知ってますか。青年さん。放浪した挙げ句、お腹空いて入ってきた。
修養科も出て、ここから戻って、もう10年以上なるかな。ずっと会ってないんですよ。会いたいと思って苫小牧に行って。
お母さんはもう10年ぐらい前に仕事辞めてるけど、30数年苫小牧でお店やってて。お酒1滴も飲めない人だけど、頼まれてお店出したら、繁盛して繁盛して。
岩倉組やら、いすゞやら、苫小牧の大きなところがどんどん来るようないいお店で。お父さんが校長先生、旦那さんが学校の先生、そんな人ばっかりなんだ、よくやったな。
そのお母さんにも悩みがあって、そういう話を、こっちはただただ聞いて、なんかの力になったかどうかわかんないけども、しかし昔を振り返り今を思い、さ。やっぱありがたいこともあるよね。
そのお母さんは苫小牧でエッセイクラブって、エッセイを書く人のクラブってあるんだね、街のクラブ入ってね。大したいい文章書いてんだわ。
だからいろんなとこに趣味があってね、そうやってそれなりになんとか生きてね。パッとしないと言いながら、まあ幸せなんじゃないかな。エッセイを毎日書くなんてね、年も80近いけど。そんな姿を見てきました。
山畠君は、北海道へ単独布教に来て、水飲むコップもないから、神様にあげた水玉から直接飲んでた、という馬鹿なこと言ってたこいつが、結婚して布教して教会になってね、今苫小牧の外れに、なかなかの教会になってんですよ。
10数年ぶりに、うちの奥さんと行って、そいつの奥さんも交えていろんな話聞いてるうちに、「良かったね良かったね」いう気持ちになりました。
昔はね「あいつやるんか、俺だってやるぞ」と対抗意識って、人間若い時はちょっとはあるね。でも、今となればね、いやあよく頑張ってきたね、って気持ちになれるんだよね。
それから甲谷、こいつは苫小牧で布教して教会になったんだよ。教会立てたんだけど、燃えた。今から9年前かな、全焼しちゃったんだよ。
こいつに何にもしてやってねえな、と思ってたら、もう借金なしで建て直してやってる、って言うからね、びっくりしてさ。今回行ってみたんだ。同級生なんだよ。
その嫁さんは妙に声がでかい、元気な小柄な人だけど。その2人の掛け合いが楽しくってね。それを見て、ああこうやって、教会は燃えたけどもう1回頑張ってんだ、っていうね。本当に心から嬉しい。
だから、自分が動いたことや、自分のおたすけで成果が上がるっていうのは、そんなに私もないんだけど、人さんの成果やそういうことを、心から喜べる現在ですね。
話は色々になりましたけど、日常がこうやって続いてるわけで、日常は私たち恩返しだ。
日常は人と接するわけで、これは日常が我々の天理教の信仰であるからね。急になにかができるわけじゃないな。
だから毎日の中にね、信仰してる人の良いにをいを、皆さん必ず持ってるから、持ってるものは「教祖」と思った時に出てくるし、ありがとうございましたと言った時に出てくるから、それでもってにをいがけもおたすけも大丈夫、とこういう風に申し上げて終わらせてもらいます。どうもありがとうございました。