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2025年6月 縦の伝道講習会
祝梅分教会長 少年会本部研究員 高橋太志

日頃より縦の伝道の上に、ご尽力いただきまして誠にありがとうございます。また、本日は6月の月次祭、心よりお喜び申し上げます。誠におめでとうございます。

先ほど団長さんからもご紹介がありました通り、5月にはおつとめを伴う少年会の総会が開催され、また、本日の月次祭の祭文には6月、今月には婦人会の総会、月末には青年会の総会ということで、各対象の会員の皆様方がこの大教会にお集まりをいただき、また会員だけではなく大勢の方がこの大教会で喜びの一日をお過ごしになるのかな、という風に思わせていただいております。また7月にはこどもおぢばがえりが開催されますので、その間、この6月に縦の伝道講習会を開催をしていただきまして、誠にありがとうございます。

私は今日は少年会本部の研究員という立場でこの場に立たせていただいております。ですので、いつもとは違って堅苦しい話になるかな、という風に思っております。先ほど私の紹介をしていただきましたけれども、もう少し紹介をしますと、私はキャンプを少年会ではしておりましたので、天理キャンプのインストラクターの副主任であったり、日本キャンプ協会のインストラクターという資格を取らせていただいております。また、誰でもいただけるんです。ちゃんとやれば。また、あの日本シェアリングネイチャー協会という会員というのもさせていただいておりまして、特にキャンプのことを中心にやっておりまして、研究員もほとんどキャンプのことが多いようなものであります。

今日は縦の伝道講習会ということなんですけれども、皆様方は親という立場の他に、大教会では団、少年会では団という組織があります。夕張団という組織です。また各教会は隊という組織を持っています。各教会の会長様は隊の育成会長、またその隊には育成委員長という方、これは後継者の方であったり役員の方であったり、教会の奥さんであったりという方がその任に就かれているかと思います。そして少年会員は0歳から15歳までなんですけれども、その年齢層を超えた男性でも女性でも同じですけれども、育成会員という立場がありますので、皆様方、子育てが終わったので、という方もいらっしゃるかと思いますけれども、各団、隊の育成係という立場もお持ちですので、そのことも心に持ちながらお話を聞いていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

■縦の伝道。信仰の喜びを伝えること 

私たちの信仰の初代の多くの方は、病気や災難、身上や事情を通して、この神様のお話を聞かせていただいて、また二代、三代の方もいらっしゃるかと思いますけれども、悩み苦しんでいる時にこのお話を、教えを聞かせていただいて、なるほどその通りだな、そして心に納めてご守護をいただいて、この教えを深く深く信仰という形で、自分でお持ちになっておられる方が皆様方だと思います。そしてその信仰の喜びを自分よりも子供、子供よりも孫が、自分よりも色々なことがあったとしても大難は小難、無難としてお連れ通りいただいているんだ。またその中に必ず喜びの心があるんだということを伝え、皆が幸せになってほしいと願われて信仰を伝えてくださっておられるのかなという風に思います。この信仰の喜びを伝えることが縦の伝道であります。私自身もこの信仰の喜びを伝えていただき、また次の子供に伝えようと努力をしている一人であります。

親神様から私たちを見ると、「…さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。…(逸話篇36『定めた心』)」とお教えをいただいていますけれども、私たちもそうですけれども、次の世代、またその次の世代の自分から見ると子供であったり孫という立場の方々も同じように神様が必要とされている道具ではないかなという風に思います。もちろん私たちもそうであると思います。私の父親は、自分の母親が早くに出直してからこのお道を知って、そして信仰をしていく中で、実の親というか、父親に勘当されてでもこの信仰を伝えて、信仰し、私に信仰の喜びを伝えてくださいました。私の母は幼い頃に父が戦争で、戦死をしたものですから、自分の妹という方は父の面影を知らずに育っております。そんな中で、特に父からすると、自分は信仰の喜びを伝えていただいたものではないので、どうやったら伝えることができるんだろう、また、その当時の教会は裕福ではありませんでしたので、なんとか一日生活をするのに精一杯の中、信仰の喜びを伝えようと努力をしてくれていたのではないかなと、今から思うと、そんな風に思います。私が小学校の頃、牛乳というのは近くの牧場に私と私の弟が一升瓶を背負わされて、歩いて買いに行った記憶があります。ですから牛乳というのは牧場で売ってるものだという風に思ってましたし、牛乳というのはすぐ飲んじゃダメなんだと、必ず温めてからじゃないと飲めないものだという風に思ってました。また小学校に入った時に、学校の先生が「今日は何を食べてきましたか?」と聞かれるんですけども、私からするとクラスメートは聞いたことのない料理、「ハムエッグ」と言われてもハムエッグって何だろう?「トースト」と言われてもトーストって何なんだろう?っていう感じでした。私が食べていたのは、鶏を飼っていたので卵かけご飯、あるいはご飯に味噌汁をかける、でそれもなければ醤油と味の素をかけてご飯を食べるっていう、それで学校に行ってたので、毎日聞かれるたびに学校の先生も聞いちゃいけないんだろうなと思って、途中から「今日は何食べてきたの?」っていうのはなくなったという記憶があります。

そんな中でも、父と母は食事の時に、その時に神様のお話であったりお助けの話、ご志号の話をまあ聞かせてくれました。特に母親はかしものかりものの話ばかりでございまして、後から繰り返し繰り返し教えを、という話があるんですけど、私からするとしつこくしつこくかしものかりものの話をしていたんですけども、私はご飯を食べなくちゃいけないので、まあその場にいなくてはいけないので、話を聞いていたというようなことです。私の子供も私と同じように、私の父母から食事の時には一緒に神様の話を聞く、というようなことでありまして、私は私の子供も食事の時に神様の話を聞かされた、というか聞いた、そんな記憶があります。

■基本に教祖のひながた
 陽気ぐらしをする喜びの伝道 

縦の伝道はご本部からはこのように言われてます。 「縦の伝道の基本は、教祖のひながたにお示しくだされています」。その後なんですけど、「教祖は、人に応じ時を見て、口や筆に、また身を持って行動という形で、手を尽くし心を配り、人々をご丹精くださっています」というのが少年会本部の縦の伝道の基本ということです。確かに教祖のひながた、五十年からあるんですけども、縦の伝道という目で見ていくと、やはりその人その人に合わせたり、その時に合わせたりして、その当時の方々に教えを伝えてくださっているのではないかな、という風に思っています。

毎年1月に年頭幹部会という、少年会に携わる方々が集まってお話を聞かせていただいたり、活動方針を聞かせていただいているんですけども、少年会長様である真柱様は、「この道の伝道は、陽気ぐらしをする喜びの伝道であります」とそのようにお言葉をくださっています。では私たちはどうしていけばいいのかと言うと、私たちが陽気ぐらしをするためにはどうしていけばいいんだろう?また教祖にお喜びいただくのはどうしたらいいんだろう?という気持ちで子供さんとも接することが大切ではないかな、とそのように思います。

そうなると結論になってしまうんですけども、私たちは教えの中で、例えば子育ての中で「やさしい心になりなされや」「人を助けなされや」「くせ性分を取りなされや」ということを思いながら、忙しい中ではありますけれども、子供を育てようとされているんじゃないかなと思いますし、「世界はぶどうのようにな、みな丸い心で繋がりていくのやで」という教祖の教えを通して、一人一人が丸い心、仲良く助け合うことが大切だよと子供に伝えていっているのではないかなという風に思います。これは親として、また育成として子供や周りの方々と接する基本ではないかな、という風に思います。

しかしながら、私たちは親子でも夫婦の中も兄弟も皆、めいめいに心違うで、というおふでさきの通り、皆一人一人考え方、感じ方が違うわけであります。これは親子だからと言っても違うわけであって、だからこそ信仰の喜びを伝えることは大変難しいことではないかなという風に思います。また「天の定規」という逸話篇がありますけれども、飯降伊蔵さんに「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみてくだされ」と言われて、作った柱に定規を当ててみると、隙がある。「少し隙があります」と言うと、教祖は「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うていることでも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」とお教えくだされました。私たちが信仰していく中で正しいと思って自信を持っていることも、もしかしたら天の定規からすると、当ててみると少し隙があるのかもしれないなっていう風に思えば、私たちも、もっともっと成人をさせていただく努力もしなければなりませんし、謙虚な気持ちで子供さんたちの意見も聞かなければならないな、そして子供さんたちが納得してもらえるまで、繰り返し繰り返し話をしていくことが大事ではないかなという風に思っています。

教祖伝を紐解くと、自分の子供さんに対して色々なことを伝えたり、また幼い子供さんたちにも色々と伝えていますけれども、私だったらどうだろうと考えると、教祖のように、とはなかなかできないなという風に思います。「お米がない」と言われたら「水を飲めば水の味がする」とは言えず、「明日にはきっと何か食べれるよ」と言ってしまったり、大和神社の事件で、こかん様が「行かなかったら良かったのに」と言うと、教祖は「後々の話の台になるほどに」とおっしゃいますけども、私だったら「あの時太鼓叩かなければよかったのにね」って相手のせいにしてしまうというか、そんな風になってしまうんじゃないかな。しかしながら、ありがたいことに私たちは、教祖がひながたを残してくださっているので、そのひながたを頼りとすることができるんだな、とそんな風に思っています。

■主軸は親 

本来、縦の伝道の主軸は、親です。親になって自分が成長したなということを感じることが、私にもあります。「育児は育自」という、自分が子育てをしているつもりでも自分が成長してるんだって言う方がいらっしゃるんですけども、まあそうだなという風にまあ実感をしております。しかしながら、私は子供たちが小さい時は夜おむつを変えるということは一切なく、その時は必ず目は開けないと自分で決めて、起きていたとしてもですね、いびきをかくふりをするとか、それは全くできなかったので、本当に子育てしてたの、と後から言われるとちょっと弱いところであります。

この縦の伝道、親が主軸ですけれども、やはり親も忙しい中でありますから、ずっと信仰の話をするということはできないかと思います。同じ家にいて同じご飯を食べていても、もしかしたら忙しさということがあって、子供たちと信仰の話をすることができない場合もあるかと思います。真柱様が「教会に関わっている時間とそれぞれの家庭にいる時間と比べたら、家庭にいる時間の方が長いのであります。いくら教会で良いことを聞いても家でそれとは違うことを聞かせ続けられてしまうと、一緒にいる時間が長い方に引っ張られてしまうのは当然だと思います。少年会の活動に参加する子供たちだけではなく、親への働きかけも考えなければならないと思うのであります」というお言葉をくださいました。親が一生懸命、そんな中でも信仰の喜びを伝えようと努力をしているわけでありますから、そんな中に教会という場所が子供さんたちに集まってきていただいて教えを伝え、そしてその教えを親が間違いのないように伝えてもらえるようにさせていただく、ということが大切じゃないかなという風に思います。縦の伝道という主軸は親ですけども、周りの方々も協力をして信仰の喜びを子供に伝えていければという風に思います。

■教会につなぐ。居場所、役割を。 

教会での少年会の活動は、少年会活動と申します。これはお泊まり会であったり、一日少年会であったり、こちら夕張団では鼓笛隊という活動もされていますし、こちらの会長さんがひのきしんということを皆様方に伝えてくださっていますから、家族ぐるみで大教会にお越しになって、ひのきしんということもされているかと思いますし、その際には親子で参拝をされるわけですから、当然親子参拝ということになるかと思います。これは大教会だけではなくて各教会でも同じことかという風に思います。その場所その場所で信仰の喜びを伝える、また信仰の喜びを伝えるお手伝いをさせていただく、少年会史というものがありまして、どの大教会にもあるかと思うんですけども、こちらでは昭和16年10月18日に幌向分教会がこども会をされたという記録が残っています。ですから大教会になるかなり前から、夕張分教会の時代からも、この少年会活動、縦の伝道に皆さん方が力を入れてくださっているのかと思いますし、この縦の伝道講習会は第一回目と言いますか一番最初、これも少年会史に載っているんですけれども、昭和50年5月15日に縦の伝道講習会の開催をしてくださっています。ですので、陞級が昭和48年ですから、夕張の道を見させていただくと、49年って大変多くの行事をされておられまして、詰所の運営委員会であったり、婦人会夕張支部総会であったりとか、たくさんの行事が昭和49年にあって、そしてそれを経て昭和50年5月15日に、縦の伝道講習会を開催をしてくださっているということは、夕張大協会に繋がる皆様方がその当時からの縦の伝道、また少年会活動にご理解をいただき、また実際に開催をしてくださっていることかと思います。

 ですので、皆様方もその思いを持ちながら、信仰の喜びを伝えていただきながら、今この場にいてくださるという風に思いますので、是非ともこれからもご理解をいただければという風に思っています。婦人会の雑誌「みちのだい」に「教会はあなたにとってどんなところですか?」というアンケートがありました。かなり古い「みちのだい」だと思うんですけども、そうすると答えが「日々、家族の健康に感謝し、お願いをする場所です」。また「身上事情について相談し、心の持ち方を教えて頂ける場所です」。 「教会は心の安らぎをいただくところです」。 「天理教の教えを学ぶところです」。 「教会は主人、私、子供たちにおつとめやひのきしんの大切さを教えてくださるところです」。これは「みちのだい」ですから、婦人会の方がアンケートにお答えになっていることであります。そして「教会に行きたいと強く思ったのはどんな時ですか?」という質問には、長女の身上、自分の身上、嬉しい時、また少年会員の時に教会で読ませていただいた諭達、という答えもありました。ですから小さい時から教会に足を運ぶということをその方の親、またおじいさんおばあさんになるかと思いますが、参拝を一緒に連れてってくださったんだなという風に思います。これは私たちも同じではないかな、このような質問が来た時、同じような答えになるのではないかなという風に思いますし、自分たちの子供や孫が身上や事情になった時、教会に参拝をしていただいたり、またここのアンケートでは嬉しい時ということが書かれていましたから、自分にとって嬉しいことがあった時に教会に神様にお礼に行こう、と思われた方もいらっしゃるわけで、それを子供や孫にも伝えていくことが大切じゃないかなって、そんな風に思います。

教会に繋ぐ、ということも、とても大切なことだと思います。教会に子供さんが参拝に来て、そしてきっと居場所というものを教会に持ってくれるのではないかな、という風に思います。居場所というのは、居心地の良い場所であったり、自分にとって落ち着く場所、また自分にとって役割のある場所、っていうのが居場所だという風に意味合いが書かれていました。教会に、子供だから、というわけではなくて、子供さんにも役割を持ってもらえるように、また感じてもらえるように、また居心地のいい場所になるように、育成の皆様方には子供さんたちにお声をかけていただければ、という風に思います。その声をかけた方が子供さんにとっては掛け替えのない人になるのではないかなと思います。掛け替えのない人というのは、より大切な人でありますから、何かあった時に相談をしたい、また嬉しかったことも報告ができるのではないかなと思いますので、これは会長さんや奥様に限らず、育成という育成会員という立場の方々は、是非とも子供さんたちにとって掛け替えのない人になれるようにお声をかけていただければという風に思っています。

話は変わりますが、今年の少年会本部の活動方針というものがございまして、今年は「教祖のひながたを目標に教えを実践し、子供に信仰のありがたさを伝えよう」という活動方針であります。これは私からすると、主語は育成だと思うんですね。育成係が教祖のひながたを目標に教えを実践し、育成係が子供に信仰のありがたさを伝えていくことではないかなという風に思います。私たちがまず「ありがたいな」と思うこと、それが必ず子供に伝わっていくのかと思います。重点項目として、「子供に教祖のお話をしよう」「教会お泊まり会、教会こども会を実施しよう」「地域で少年会ひのきしんを実施しよう」ということであります。そして再開3年目になりましたが、こどもおぢばがえりは年祭活動最後の年でありますので、一人でも多くの子供さんがおぢばに帰っていただき、おぢばがえりの喜びを味わっていただく。また全教会から、これは子供さんだけではなくて、全教会から目指そうということでありますので、今年も7月27日から8月3日までこどもおぢばがえりの期間だと思いますので、是非ともその期間におぢばにお帰りをいただいたり、また子供さんがおぢばに帰れなかった時には親が代わりになっておぢばに帰り、おぢばがえりを味わっていただければなという風に思っています。

■教祖にお喜びいただくには、という心の物差しで 

私の経験を少し話をさせていただきますと、私は少年会の委員をしてる時に少年ひのきしん隊本部練成会の寮長を3年間勤めておりました。途中では新型インフルエンザ、今で言うと懐かしいんですけども、新型インフルエンザの時の寮長を務めておりました。ある年に隊員ではなくて、サブカウンセラーさん、高校生の女の子なんですけども、夜になると過呼吸になると、疲れてくると。サブカウンセラーさんも少年会の隊員と一緒に寝るんですけども、過呼吸がうつるんですね。一人過呼吸になってくと、どんどんどんどん子供たちがそれが気になって寝れなくなってるうちに、一人過呼吸、二人過呼吸って、みんなぜいぜい、になっちゃうんだそうです。この少年ひのきしん隊っていうのは教区なんですけども、そこの教区の団長さんがどうしたかと言うと、「この子さえいなくなったら、みんなが元気になるからこの子を家に返します」っていうことになったんです。私は「ちょっと待ってください。30分だけ時間ください」と言ってお時間をいただきました。その当時私は少年会の委員を務めていて、少年ひのきしん隊の寮長を務めている際に、「身上事情はお荷物ではないんだぞ」ということをある本部員の先生から聞かされていました。ですから、このままその過呼吸の子供を返してしまったら、この子はその後ずっとそのことばかり気になってしまうので、なんとかできないかということで、「じゃあ寮長と一緒に寝ればいいんじゃないか」「同じ部屋に寮長が世話取りをすればいいんじゃないか」ということを本部に「これできますか?」って言ったら、本部も「そんなことはしたことがないし、やった人なんかいませんよ」と言って、もちろん救護の方にもお話をしましたが、救護も「みんな具合悪いのに過呼吸の子が来てまた寝れなくなったら困るから救護では面倒見れません」となって、最終的には本部の婦人会の方々が当番で、前期と後期でお母さん役をしてくださったんですよね。その方が、「じゃあ私たちが面倒見ますからもう安心してください」って言って、残りの期間はその婦人会の方々が面倒を見てくださったんです。最後までその子はひのきしんを務めていただくことができました。私一人が調子に乗ってやっても、きっとうまくいかなかったんですけども、周りの方々のご協力を持ってできました。また思い出しましたけども、少年ひのきしん隊って中学生なんですけども、やはり夜尿症の子がいます。女の子がそうなったんですけども、いち早く婦人会の先生方が布団ごと全部持ってって女の子に「具合悪いよね」って言って連れてってくれて、全部着替えてくれて、で普通にまた元に戻してくださった、っていうことがあって、そんなの私がやったら大変なことになるんですけども、そういう気遣いをしていただいたおかげで、その子も最後までやめることなく、少年ひのきしん隊の期間を終えることができました。ですから一人が頑張ってもやはり無理で、周りの方々のご協力がなければできないんだな、ということを改めて感じさせていただいております。きっとその子たちにとっては嫌な思い出だったかもしれませんけれども、しかし世話をしてくださったということが後からきっと心に浮かんで、自分もそういうことをしようと思ってくださるのではないかなという風に思っています。私たちがいただく身上や事情も、必ず信仰の元一日として成人をさせていただく機会として得ることがありますし、その時は感じれなかったことも、年月が長く過ぎてから「ああ、なるほど」と思ったり、その中に喜びということを感じてくださるのではないかなという風に思っていますから、どうか身上や事情はお荷物ではないんだ、ということを皆様方心において、子供さんたちとお付き合いをしたり、子供さんたちを励ましていただければなという風に思っています。

真柱様が、「子供は、時としていろいろなことを口にするし尋ねてもきます。そうした子供に対応しながら、親神様、教祖のことを教えて、様々な教えの実行を仕込んでいくことは、なかなか時間のかかる仕事であります。時には子供の態度に苛立ったり、腹の立つこともあるかもしませんが、だからと言って、そのまま放っておいては育つものも育たなくなってしまいますから、自分の心を治めてください」という、これは育成係に対しての、お言葉ですけども、そのようなお言葉をくださいました。真柱様も私たちの気持ちを分かってくださってるのかなと思いますし、私たちが苛立ってしまったら信仰の喜びは伝えられませんので、しつこくではなく繰り返し繰り返し教えを伝えていただき、ほったらかしということはしないでいただければな、という風に思います。

最後になりますけども、私が皆さん、少年会本部研究員という立場で言うのもなんですが、私はかなりしんどい時がある時ありまして、夕張の前会長さんから「温泉に行ってきた方がいいよ」「疲れてるだけだよ」と励ましてもらったことがあります。その時に、まあ出会った詩なんですけども、「存在」という詩です。読みますと「あなたがただ存在(そば)にいるだけで 心やすらぐ人がいる あなたが ただあなたで存在(ある)というだけで 誰かが癒されている あなたの存在(ありかた)そのものが 誰かに元気を与えている 自分の存在を証明するために 無理して頑張って生きていると ふと忘れてしまう事がある 自分が存在(いる)というだけで 誰かのこころをあたためていることや 誰かの生きる支えになっているということを」という詩と出会いました。私たちも皆、心が倒れてしまう時があるかもしれませんけれども、私たちの存在は必ず誰かの心を温めることのできる存在であったり、誰かの生きる支えになっていると信じていますし、信仰から考えると私たちは教祖の道具衆であるから、陽気ぐらしをするためにそういう存在を得てるのかなという風に思っています。

最後の最後になりますが、婦人会青年会少年会からの提言というのがかなり昔からあります。「家族ぐるみで教会に参拝しましょう」ということで、お互いの行事や活動を連携しながら、少年会員の方また少年会員を終える若者たちがそれぞれ婦人会員や青年会員の活動に参加できるように呼びかけていきましょう、信仰を伝えていきましょう、という、三会からの提言であります。この大教会では5月に少年会の総会が行われ、また今月は婦人会、青年会と総会が開催をされますけれども、まさに今言った通り「家族ぐるみで教会に参拝しましょう」ということを実感されておられるのではないかな、またこのようなことを通して少年会を終えた若い方々が青年会や婦人会の活動に参加してもらえるように、そのためには少年会の時から青年会や婦人会の皆様方は今と変わらずお力添えをいただければな、という風に思っています。

縦の伝道は教祖のひながたにありますよ、とお話をさせていただきましたけれども、なかなか教祖のひながたを通るのは難しいかと私は思っています。私が思っていることは何かと言うと、これは昔の天理時報に載ってたんですけども、「幸せを選んでください 人生の中で出会うたくさんの分かれ道 その時、幸せにつながる道を選んで下さい 「教祖にお喜びいただくにはどうしたらいいだろう?」 という心の物差しで選んで、幸せの道を歩きましょう。」というのが載っていたんですよね。私は大変気に入っていて、その通りだな、と思ったんです。ですから私は何かあった時にこの、教祖にお喜びいただくにはどうしたらいいだろう、という思いで、しかしながら私も真っ直ぐな柱ではないので、本当に天の定規に合わせるとどうなるか分からないんですけども、そのように努力をしております。皆様方にとっては月次祭を勇んで終えられた後、このような長い時間お付き合いをいただきまして誠にありがとうございます。お時間を過ぎてしまいましたのでこれで終わらせていただきます。またどうぞ、縦の伝道、少年会活動にご理解をいただき、またお力添えいただきますようお願いをいたします。ご清聴ありがとうございました。