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2024年7月神殿講話 善進道分教会長 渡部辰大

 先日、大教会長様より御命を頂きまして、「喜んで務めさせて頂きます」と心にないような言葉で返しました。

 大教会の神殿講話は、一年間通して決まってるのかな、って思ってたんです。それが、奉告祭から1ヶ月経たずに言われるのか、とちょっとびっくりしましたが、一生懸命務めさせて頂きます。

 

 何分、滑舌が悪く、自分の気持ちを言葉にするのが非常に苦手ですので、聞き苦しい点があると思いますが、聞き上手でお願いしたいと思います。これからお話いたしますのは、自分自身に言い聞かせる、長い独り言でございますので、皆さんもそれを聞いていただけたらと思います。

■ 陽気ぐらし世界へ近づけるように…

 私の父が会長になってこの場に立った時に、その日の直会で大教会の前会長様が、「卓哉、宇宙の話なんてしなくていいんだ。お前はもっと話せることがあるだろう」って言ったのを、覚えてるんですよね。

 斯くいう私も、宇宙が大好きでして、その話は今日しようかな、とも考えたんですけども、前会長さんご安心ください。今日はしませんので。

 

 まずお礼をさせて頂きたいと思います。

 3月26日に任命のお許しを戴き、また5月19日には、五代会長就任奉告祭を務めさせていただきました。ここにいる皆様からも、本当に多大なお心がけを頂きました。

 また、たくさんのラーメンのお供えがありまして、私がラーメンが好きだということを知ってる方が、本当にしてくれたんですよね。もう一年中食べれるんじゃないか、っていうぐらい、して頂いて本当にありがたい次第でございました。皆様本当にありがとうございました。それではお話に入らせて頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

 

 私には姉2人妹2人いまして、今教会の近くに妹家族、また札幌の方に妹家族と、いてくれているんですけども、その札幌の方の妹の娘、僕から言ったら姪ですよね、その姪が札幌に住ん でるので、教会の近くの地域のことは、分かってないはずなんです。

 けれどもある時、その子が3、4歳の時だったと思うんですけども、車に乗って由仁の田舎道を走っていると急に、「あ。私、ここ知ってるよ。私、ここに住んでたの」って言い出したそうです。その時聞いていたのは、川端に住んでいる妹が運転してたんですけど、「そうなんだ。お母さんどうだった?」って聞いたら、「綺麗な人だったよ」とかべらべら喋り出したそうですね。

 また、その川端の妹の娘も、小さい時に「あ、思い出した。私ね、事故で死んだんだった」って急に言ったそうです。

 

 私にも2人の子供がおりまして、長女がまだ2歳の頃に、家族で修養科に行かせていただきました。詰所のお風呂に入っていると、突然風呂のドアを開けて、「お母さん、じいちゃんいない」って言うんですね。娘からした『じいちゃん』っていうのは、私の父ではあるんですけども、当然知らない。

 おそらくその『じいちゃん』というのは、私のじいちゃん、元詰所主任の、私の祖父を指しているんじゃないかな、そんな風にその時は思ったんですよね。少ししてから、詰所の階段のところで、一応確認してみたんですよね。「紬、じいちゃんのお部屋どこにあった?」って聞いたら、今主任室には好道先生が住んでらっしゃいますけども、その部屋を指したんですね。

 知るはずがないんですけど。でも、そうはっきり言うんですよね。

 

 娘が3歳になって、お風呂に入っている時に、私、胎内記憶とかそういうの聞くのが好きなもんで、たまに聞くんですよね。

 でも大概ふざけて返したりするのが多かったりしたんですけど、その時は遊びに夢中になってまして、ポンと返してきたんですね。「お腹の中いる時どうだった?」「うん怖かった。暗くて」って言いました。「生まれた時どうだった?」「うんそれもね、怖かったから泣いてた」ってね。

 あ、今日よく喋るな、と思ったんで突っ込んでみたんですよね。「お母さんのお腹に来る前、どこにいたの?」って聞いたら、考える間もなく、すぐに「ひろ君のね、おばあちゃんとこにいたの」って言ったんですよね。

 ひろ君というのは下の息子、弟の大哉のことです。ひろ君のおばあちゃん、つまり私の母のことを言っていると、その時はそう思ったんですよ。でも僕の質問は、お母さんのお腹に来る前ですから、僕の母でもない。多分、前生の話をしてくれてると思うんですね。はっきりしてるのは、この子たち2人は、この魂2つは、前もすごく近くにいたんだな、ということです。

 

 この生まれ変わりということ、天理教の教えの中でも、出直しと生まれ変わりというのは、お道を語る上でも、かしものかりものの教理についてすごく大事な、そして一般の人にすごく話しやすいといいますか、すごく大事なもんじゃないかな、という風に思います。

 元の理の中でも、人間は幾度も生まれ変わりを繰り返しては、人間の成人の過程をこう伺うようなことも見受けられますよね。そして、出直しというのは、陽気ぐらし世界を建設する上でも、本当に大切な契機の1つなんじゃないかな、そんな風に僕は思います。

 出直したら一旦、親神様の懐に抱かれて、いずれ親神様の思うタイミングで、思う場所に、生まれ変わってくる、と聞かせてもらいますね。でも、そのタイミングその家庭、というのは、本当に僕らには全く分からない、親神様にしか分からない。やはりタイミングとその家庭には意味があって、親神様がこうしてくださってるということは、生まれた家庭、周りの人たちにとっても、誰一人欠けることなく、大事な人が生まれてきたわけであると思うんですよね。

 なので、それによって周りがまた一回り、陽気ぐらし世界に近づけるように、親神様がそこに生まれさせてくださった、と思うんです。

 

 この話を2日前、私の上級の南幌分教会の会長様が、同じような話を善進道の月次祭でしてくださったんですよね。

 その時すでに、この話をしよう、と考えていたので、「あ、先に言われたな」って思ったんですけども、今はあのパクったわけではないので、そこをちょっと押しておきたいな、と。

 まあでも、理の親である会長さんと同じタイミングで同じ思いに至ったというのは、本当に嬉しいことだな、とそんな風にも思わせていただきます。

■ たすけ心を持って勤めれば

 人間が生まれてくる時、いんねんあるところに生まれ変わってくる、と言いますが、元のいんねんというのは人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい、という親神様の思召、それが元のいんねんでございます。

 親神様の思召が込められて生まれ変わってくる我々は、この地球上で今80億人ぐらいですか。その中で、天理教の信者は今120万人くらいでしょうか。中でも、教会長っていうのはたった1万4000ほど。世界で80億の中のたった1万4000、これは本当に親神様に期待を込められて、ここに生まれさせていただいたんだなあ、と。プレッシャーですね。

 

 日々はこのプレッシャーに追われてますけど、期待に答えるべくおつとめやひのきしんであったり、教理勉強またにおいがけをさせてもらいたい、とは思っているんですが、私も人間心の塊ですので、おつとめの時間だからするおつとめ、月次祭の日だからする月次祭、ひのきしんだから、においがけだから行く、やる。また授業だから受けている教理勉強、ってな感じで、全く私も恥ずかしいことばっかりでした。

 3月に任命講習に行かしてもらった時に、先生が「おつとめ、においがけ、ひのきしん、教理勉強、何においても人のため、また助け心を持って全て勤めれば、全部真剣にできるだろう」っていう風におっしゃったんです。その通りだと思うんです。

 

 お願いづとめはもちろんなんですけども、月次祭のおつとめの時でも、人のことを思って、人のためを思って助け心でさせてもらえれば、今日のご飯なんだろう、なんか考えずに真剣に務めさせてもらえる。

 またにおいがけにしてもひのきしんにしても、させられるものじゃなくて、あの人のためと思ってつとめる。誰かの身上助けを願って、布教の家に1年入るって方も大勢おられました。そう思うと、本当に真剣にできると思うんですね。

 また教理勉強は、分かりやすいので言いますと、教養掛かな。私も何回か行かしていただきましたが、修養科生さんに間違えた手振り、間違えた教理は教えられませんので、やはりその日にやろうとしてる修練の予習、自分では分かってるつもりだけども、もう1回見てみよう、その時はものすごく真剣になるんですよね。

 人のためにさせてもらう勉強は、本当に真剣に取り組むことができると思います。

■ たすけあいの心を広めるには

 実は『助け合いの日』というのがあるのをご存知でしょうか。年に1回、10月15日。夕張の秋季大祭の日ですね。

 これは社会福祉協議会というのが、昭和40年に制定したそうです。日常生活での助け合いや、ボランティア活動への参加を呼びかける日として、制定されたそうなんですね。

 この助け合いの日に、毎年この社会福祉協議会がアンケートを行っています。3000人の男女、10代から70代にアンケートを取っているんですね。その内容がちょっと面白かったので、皆様にもご紹介したいなと思います。困っている人に対する、気持ちや意識として、当てはまるものを答えてください。そう思う、ややそう思う、あまりそう思わない、そう思わない、と4択になってるんです。

 

 『人が困っていたら助ける』に、そう思う、ややそう思うと返した人は81%。『人が困っていたら声をかける』は75%。『困っている人がいたらよく気が付く』と答えたのは60%、特に年齢が高いほど、これは多かったそうです。

 

 また次の質問では逆に、『自分が困っている時に人に助けを求めますか』という質問。これには、やや求めるを含んでも35%。6割以上の人が助けを求めないんです。

 その求めない人の理由としまして、自分で解決する、解決したいというのがほとんどで、その他は、迷惑をかけたくない、恥ずかしい、面倒、また信用できない、とそういう理由がありました。

 

 また、『最近1ヶ月の行動で、見知らぬ人で困っている人を助けましたか』。これに、したことがある、と答えた人は18%でした。さっき最初の質問で聞いた、人が困っていたら助けますか、に対しては8割以上の人が助けたい、と答えたんですけども、困っている人は6割以上がそれを表に出さないんですよね。

 助けたい、でも助けられたい人は言わない、出さない。また最近1ヶ月で助けたことがある18%、それ以外の人たちですね。助けなかった人は、なぜ助けなかったのか。その1番の理由が、そんな場面に出くわさなかった、がほとんど、85%でした。

 

 また次の質問で、『日常で目の前に困ってる人がいたら助けますか』、助けるが63%。どちらとも言えない、と答えたのが30%。これはですね、若い人、20代30代が、どちらとも言えないをほとんど選んでるそうですね。

 迷いがあるのはやっぱり若い人なんです。ここで、助けない、と答えた人の理由は、助ける余裕がない、助けの手段が分からない、方法が分からない、勇気が出ない、自分が不利益を被りそう、また誰かがするだろう、というのが理由でした。

 

 最後に『これからの社会に助けは必要ですか』という質問には、ややそう思う、までを入れても85%。やっぱり助け合いの精神というのは、阪神大震災以来でしょうか、災害だとかSNSの普及によって、非常に広まったと言いますか、そういう今の社会になってきているのだな、と思います。

 

 

 このアンケートの中で私がちょっと注目をしたのは、困ってる人を助けますか80%で、困っていたら助けを求めないに6割、さっきも言いましたけども、本当に助けたいと思っている人が多いのに、それを隠す人がほとんどである。

 

 また、最近1ヶ月人助けをしなかった理由、そもそもそんな場面に出くわさなかった、これは出くわさなかったのではなくて、気づかなかったんじゃないかな、人が困っていることに気づかなかったんじゃないかな、っていうのも中には入っているんじゃないかな、と思うんです。

 

 関わると、自分に不利益を被る、そういう風に思ってる人もいますので、そもそも何か起きそうになったら、見ない、とかその場からいなくなる、とか避けようとする人もいるぐらいですから。困ってる人がいるのに、気づかなかったんじゃないかな、っていう風に僕は思ったんです。

■ 親神様の期待に沿えるよう

 この道を信仰させていただくことができる家庭に、私も生まれさせてもらって、他人に対して優しくできるように、親またはここにいる皆様にもお育ていただいたわけでございますけども、恥ずかしながら、まだまだ何事も助け心を持って、とか人のためを思ってさせていただく、ていうことがまだまだ出来ておりません。

 私よりも助け合いの精神を持った、未信者の方も大勢いらっしゃると思うんです。それでも私は、世界中80億の中の、たった一握りの教会長に成らせていただいたからには、親神様の期待に沿わないといけないな、と思います。

 

 先ほどのアンケートで、困っている人を助けない、と答えた理由に、手助けの方法が分からない、というのがありました。これだけは僕も、世間の人よりは分かっているぞ、とちょっと自信を持って言えます。

 それはもちろん、身上であればおさづけであったり、その他であればお願いづとめであったり、つとめとさづけ、なんだと思うんですよね。それも、助け心を込めて、しっかり真剣に務めさせていただく、つとめとさづけなんだと思うのでございます。

 私の教会でも、大教会と同じように、朝お願いづとめをさせていただいてるんですけども、皆さんご存知の通り、私は朝が非常に弱く、自分に「起きろ」と言い聞かせているところでございます。

 

 また、身内で身上者が出た時に、すぐおさづけを取り次ぐことができるか、と言ったら、私もそうではないんですよね。恥ずかしいというか、言わんでもやらんでも分かるんじゃないかと、そんな風な気持ちが働いてしまうんですよね。

 ですから、するのは寝てる時が多いです。それもしっかりお話も挟みながら、これからもさせてもらわなあかんで、と言われているような気がいたします。

 

 最後に、講習の担任をしてくださいました、やまとよふき分教会の前会長様より、終講時にいただいた、おさしづの一節を読み上げて、終わらせていただきたいと思います。

 

『…この道は聞けば聞くほど難しいという。難しいやない心の理が難しいのや。(明治24.3.23)』

 

 このおさしづの意味合いは、次の通りに解説して下さっています。

 お道の信仰は奥が深い。先人の道すがらを聞けば聞くほど、そんなことを自分が実行できるのかと思う。

 しかし、自分ができると思う事だけをしているのでは、何の進歩も発展もない。できるかどうか分からないけども、神様にご加護を戴いて通ってみる心になる。

 その神様の不思議な働きを見せて頂くのが、信仰の醍醐味・喜びなのです。

 問題は、出来ないのではなく、やろうとしない心。

 厳しい道を通った先人も、最初から通れる自信があったわけではない。無我夢中で通った道が、大きな道になっていったのです。

 

 

 以上、長い独り言でありました。ありがとうございました。