北海道岩見沢市にある天理教夕張大教会のホームページです。

ひきよせ 1月号 2024年

松田理治先生 講話 後半

 続いて4番目、おつとめを勤める、ということについての海外の実例を申し上げたいと思います。よろづたすけのおつとめ、かんろだいを囲んで勤められますけれども、各教会、この夕張大教会でもそうですが、その理を受けて勤めることが許されています。今日の祭文にもありましたけれども、その理を受けて勤めるとはどういう意味なのか。言い換えれば、おぢばで勤められるかぐらづとめと、同様の陽気さを持って、各教会でもおつとめを勤めるならば、親神様はその真実を十分に受け取ってくださって、お働きくださることだ、という意味なんだろうと私は思っています。
 当たり前の話ですが、今日のおつとめは、我々日本語で勤めました。教祖は日本語で教えられたわけです。現時点で、おつとめがその国の言語で勤められているのは、この日本を除いて韓国だけなんです。韓国では韓国語でおつとめがなされています。他の国では、日本語で勤められています。日本語が分からなくても、日本語で勤めてくださっています。
 なぜ韓国だけなのか、と言うと、理由はいくつもあるんですが、大きくは二つです。一つは戦前、第二次世界大戦までは、朝鮮半島にたくさんの日本人布教師がいました。けれども終戦という事情によって、全て引き上げを余儀なくされたので、残された韓国の信者さんたちは、韓国語で自分たちの信仰を守らなければならなかった、ということですね。実際にその当時の韓国の教友たちは、日本語でおつとめを習いましたけれども、日本人が全部いなくなって、じゃあこの信仰を守っていこうと思えば、なんとかして韓国語にそれを変えて、やらざるを得なかった、ということなんです。
 あともう一つは、日本語と韓国語は文法的に近いので、日本語と同じような語順で韓国語も訳せる、ということなんです。それが韓国語でおつとめがなされている、という大きな理由のもう一つなんです。ところが、日本語と韓国語が近いから、同じような語順でできると言っても、他の言語ではそうはいきません。海外のその他の国・地域の教友は、日本語が分かる分からないに関わらず、日本語でおつとめを勤める、ということになっています。

 実際にこれはなかなか難しい問題で、例えばアメリカとかハワイとかブラジルとか、そういう国々では、まずは日本人や日系人の社会の中で、天理教が伸びていきましたから、これを非日系の人たちにその輪を広げていくことになると、やはりアメリカ・ハワイでは英語、ブラジルではポルトガル語でおつとめを勤められるようにならなければならない、という考え方をする人もいれば、それに対して慎重に考える人もいるわけです。
 慎重に考える人の理由というものは、本当に日本語と同じような語順で訳せるのかということです。例えば『あしきをはらうて たすけたまへ』と我々やってますけども、これを今現在の英語の訳でやると、「sweeping away evils,please save us」と言うんですが、これを日本語に逆訳して言うと、『払います、あしきを』となる。ということは、合掌してる時に、払いますということを英語で言って、払っている時にあしきを、と言う、そういうことになってしまう。ということは語順が合わない、つまり手と口が一致しないわけですね。例えば『よろづよの せかいいちれつ みはらせど』とやりますけれども、それを英語の語順で言うと「looking all of the world」と始まるから、よろづよの手の時に、英語では見晴らす、ということを言ってるわけなんです。だから語順が合わない。果たして日本語と同じような語順で、英語でできるのか、ということで慎重論を唱える人が多いわけです。

 そうかと思えば、フランスに唯一、桜井の系統で、ボルドー教会があります。ワインで有名なところです。そこの今の会長、ジャン・ポール・シュードルという方は、生粋のフランス人です。日本語が全然できない。でも、その人は日本語ができないにも拘わらず、教祖がおっしゃったことを、そのままやったらいいじゃないか、教祖が『あしきを』という風に、日本語で言ったんだったら、私たちフランス人も『あしきを』と、そのままやったらいいじゃないか、という人もいるわけですね。

 天理教で最も大事なものである、このおつとめ。最も大事なものであるからこそ、いろんな意見があるんだろうな、という風に思っています。私が学生の頃、あるアメリカの教会長さんが、このように言ってくれたんですね。「松田君、あのね、私は教祖がおつとめを教えてくださった、ということは何よりもありがたい、と思ってるんですよ」というように、おっしゃってくれた。私は学生の時分でしたから、物事を斜めに見るようなことが多くて、海外伝道など所詮絵空事やな、と思ってた時期があったんです。けれども、その先生がおっしゃってくださった言葉で、もう一気に心が洗われた気持ちになったのを覚えてるんです。今もなお、先生はどういう意味でそんなことをおっしゃったのかな、というように自問してるところなんです。

 アフリカには、天理教の教会が一つあります。コンゴ共和国という国の、首都ブラザビルというところに、コンゴブラザビル教会があります。先月9月26日のお運びを持って、マテラマ・ギィ・ラウールという方が六代会長の任命のお許しをいただきました。天理時報の10月11日号なんですが、それに彼のことが詳しく載ってますので、それをご覧いただければと思います。そのコンゴブラザビル教会の前会長が、2年前の10月1日に出直されたんですね。ですので、新しい会長が立つまで、2年かかりました。その間、会長の候補となるような人は、何人かいたんです。いろんな相談の結果、ギィという男性が、適任者と推されて会長候補となって、今年3月に奥さんと共におぢば帰りされて、半年の研修を受けられました。
 4月に教人資格講習会、5月に教会長資格検定講習会に行かれて、6月、7月、8月と、修養科の一期講師を務められました。当然フランス語クラスです。一期講師を務め切り、それを以て我々が、これやったら大丈夫や、これやったら間違いない、というので9月のお運びで任命のお許しを願ったわけなんです。
 この新会長のギィ氏は、日本語が全然できません。信仰も初代です。彼ら夫婦はこの半年の研修の間、ほぼ毎日、本部の朝夕のおつとめに参拝していました。特に朝においては、教祖殿のまなびまでしっかり勤めてから帰ります。大体において合殿で勤めることが多かったんですが、そこにいる日本人の誰よりも、正確に歌を歌って、お手を振っていました。
 彼ら夫婦のみならず、コンゴブラザビル教会には、日本語は全然できないけれども、鳴物とかお手振りをほぼ完璧にできる人がたくさんいます。当然、おつとめの地歌は日本語です。

 このコンゴという国は、他のアフリカ諸国の例に漏れず、非常に貧しい国なんです。過去には内戦とか政情不安で、多くの人が苛まれたんですね。実際、コンゴブラザビル教会の敷地を挟んで、銃撃戦もあったという、そういう環境なんです。食料の自給率も30%しかない。日本人の平均寿命は、男性で81歳くらいですね。女性になると87歳ぐらいになります。コンゴの平均寿命は62歳なんです。日本と20年も違うんです。実際に、この前会長が出直されたのは、60歳でした。ギィ新会長のお父さんも、52歳で亡くなっています。
 そんな環境の中で暮らしているコンゴ人教友の考えるおつとめのありがたさと、私たちが考えるおつとめのありがたさというものは、これ同じなのか。あるいは次元の違うものなのだろうか、と考えることがあるんです。
 この新しい会長の特筆すべきことというのは、他にもあります。彼はコンゴブラザビル教会の会長になるまでは、ブラザビルから500㎞ほど離れたところにある、布教所の所長をしてました。今もしてるんですけれども、この布教所の神殿普請を、海外部とか教会の援助を受けずに、自分たち布教所の者だけの力でやる、ということを実はしています。これはコンゴにおいては、大変なことなんです。自分たちがおつとめを勤めるところは、自分たちで整えなければならない、という信念からです。鳴物とかお手振りとか、そういうことだけではなくて、自分たちのおつとめをする所も、そのように大事に考えるというところをもって、彼が会長に推されたんじゃないかな、と私は思っているんです。

 最後の、おさづけを取り次ぐ、ということについては、特に詳しい説明はいらないのではないかな、と思います。なぜかというと、おさづけの理を拝戴した我々よふぼくは、等しくおさづけを取り次ぐ立場にあります。別席の話に、このおさづけの理に重い軽いの理はない、と教えられています。あの人のおさづけは効く、あの人のおさづけは効かない、とそういうものは、そもそもないはずです。そうであるとともに、国内においても海外においても、おさづけの効能というものが変わることも、もちろんありません。

 ここでも先ほど例に出した、コンゴブラザビル教会の新会長、ギィ会長の話をしますけれども、天理時報には、このような彼の談話があるんです。『4年前、新型コロナウイルス感染拡大はコンゴにも多大な影響を及ぼした。「病院に行くと、コロナに罹ってしまう」という噂が流れ、(ギィ氏が所長を務める)ポワント・ノワール布教所には、たすかりを願う人々が連日詰めかけた。当時、未知のウイルスに不安を抱いていたギィさんは、布教所を訪れる人々への対応に悩んだ。しかし「教祖の道具衆として、おさづけを取り次がせていただかなければという使命感に駆られた」。他宗教の施設が閉鎖されるなか、布教所では毎日おつとめを勤め、たすかりを願う人々におさづけの取り次ぎを続けた。「たとえ自分が病に倒れることがあったとしても、親神様にもたれきる思いで、教祖の手足として働くことを誓って、おたすけに奔走した」と振り返る。』というように、天理時報では書かれているわけなんです。
 これによると、日本とコンゴでは、状況が全く逆だったってことが分かります。我々日本人は、コロナ禍の時は、ちょっと体調を崩したり、あるいは陽性と思しき人に接触したり、というようなことがあれば、すぐ病院に行きました。ところが、コンゴでは、病院を信用してない。病院に行ったら、コロナに罹る、むしろその布教所に救いを求める人が、殺到したわけです。
 当時、布教所のよふぼく、おさづけを取り次げる人は、ギィ氏と、その奥さんしかいませんでしたから、当人たちは、まだまだ事態が分かってない病気に、恐怖心を抱いていたであろうことは、 想像に難くありません。それに構わず、自分がコロナにかかるようなことがあっても、教祖の道具衆として働くことを誓って、寄り来る人々におさづけの取り次ぎを、ずっと続けたのです。だから、この3年以上に及んだコロナ禍において、我々天理教の仲間内でも、彼ら夫妻が一番のおたすけ人であったのかも分かりません。

 コンゴブラザビル教会の新会長のギィさんは、今もなお、その布教所長を兼務しています。なぜかと言うと、会長になりましたが、前までやってた布教所の、所属のよふぼくは彼らしかいないんです。規定上、布教所長になるには、よふぼくにならなければいけません。次の布教所長は、実は決まってるんです。ですが、よふぼくではないので、布教所長になることができないんです。コンゴのようなところから、おぢば帰りをするということは、これはもうなかなか容易なことではありません。一つは金銭的な事情、もう一つはビザを発給してくれるかどうか、ということです。コンゴの教友がおぢば帰りできたとしても、大多数はもう、一生に一度なんです。
 ですので、ギィ新会長は今回を除くと、まだ2回しかしてなかった。その奥さんはまだ1回しかしてなかったんです。今回、会長になるというので、2人に研修を受けさせるために、おぢばに呼びましたけれども、それがなかったら、彼らがおぢば帰りする機会が、これからあったのかどうかも分からないんです。
 次に布教所長になる人は決まっている、と申しましたけれども、この人も実は数年前に、おぢば帰りをしています。修養科のフランス語クラスも修了してます。でもその時は、真柱様のご身上で、おさづけの理が拝戴できませんでした。かと言って、コンゴから簡単におぢば帰りすることができません。でも今月の今日15日に、この者がコンゴを発っておぢばに帰ってくることができるようになりました。この秋季大祭前後に、おさづけの理を拝戴できるのではないかな、と思います。それをもって、コンゴに戻り、布教所長交代という動きになるわけです。コンゴに帰った暁には、布教所長として、新しい会長を支えてくれる立場になるんじゃないかな、と思っています。

 我々はおさづけの理を拝戴してます。また当然ですけれども、北海道からおぢば帰りをする、ということも、容易ではありません。けれども海外には、こういう人たちもいるんだ、一生に一度しか帰れない人もいるんだ、そういう人たちはしっかり自分たちの住む土地ところで、やってくださってるんだということを、ご理解いただけたらと考えます。
 このコンゴブラザビル教会の新会長の就任奉告祭は、来月11日に行われます。私はそれに行くことになっています。コンゴへ行くのは2回目なんですね。1回目は去年の5月に行ったんです。その時は、会長不在の状態でしたので、その事情整理のために行きました。事情と言っても、我々でも考えのつかないようなことが起こってくるんです。例えば、前会長が出直して、海外部のフランス語関係者に、不穏なメールが入ってくるんです、たくさん。俺を会長にしろ、この者がいいんじゃないか、等々。アフリカの世界で、会長になるということによって、凄い実権が伴うものなのです。 それを収めるため、いろんなルールを作るために、私は前回行ったのです。今回は会長就任という、喜ばしい節で行かせていただけること、非常に喜んでおります。ありがたい姿を、この旬に見せていただいてるな、というような感じがしております。

 ちなみに、コンゴまで行こうと思ったら、どのくらい時間がかかると思われますか。いろんなルートがありますが、パリを経由します。関西からパリに行って、パリからコンゴに飛ぶ。今ですと、関西からパリまで12、3時間。パリからコンゴまで7時間。大体、全部で合せて20時間です。前は関西からパリまで、10時間でした。今はウクライナの上空を迂回するので、それだけ長い時間かかっています。これは余談でありますけども。

 以上、諭達にお示し頂いている、5つの実践項目について、海外の実例を挙げてお話をしました。冒頭で申しましたように、それぞれ国・地域の実情に合わせて、天理教の活動を進める必要がありますけれども、おたすけということについては、日本も海外も変わりはありません。冒頭でも申しましたが、この三年千日という期間を、仕切って務めてもらいたい。特に力を入れて務めてもらいたい、というのが、諭達に込められた真柱様の思いです。
 ですので、この三年千日以外の期間は、常日頃の時、つまり常時であるとすれば、今のこの三年千日は、非常時である、ということができると思います。非常時というと、何か緊急事態が起こってるような、そんな感覚になりますけど、私はそう捉えていいと思ってます。
 国内国外を問わず、私たちよふぼくは、日々真剣に、この道を通っています。この旬において、自分の決めたことをしっかり実行できている、という人は、これからも気を緩めずに、お進みいただきたいと思いますし、また自分は、その目標に達していない、と感じている人は、その遅れを取り戻すべく、これからもにをいがけ活動、おたすけ活動にお励みいただきたい、ということをお願いして、今日の講話を終えたいと思います。
 世界中で頑張ってる人たち、たくさんいます。しっかりと自分の与えられたことを、それぞれ持ち場立場で共々にしっかりやる、ということをお誓い申し上げて、終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
            (文責 編集部)

10月祭典の模様

12月 神殿講話 北弘分教会

 前回、私がこの場に立たせていただいたのは、昨年2月のことであります。それから1年と10ヶ月が経ちまして、1人だった子供が、3人に増えました(会場拍手)。昨年長女、そして今年の夏に次男を授かりました。ずっと不妊で苦しんでおりましたから、神様のなさること、というのは本当に不思議なことである、と夫婦で思っております。次男が生まれてからの毎日というのは、夜泣きがなかなかひどくて、次男が泣けば夜中に長女も釣られて泣く、もうどれだけ泣くんかっていうぐらい、3人子供を授かってこんなに泣く子はいないな、っていうぐらい泣くわけです。夫婦揃って、本当に毎日寝不足です。

 おふでさきに『子のよなきをもふ心ハちがうでな こがなくでな神のくときや(三 29)』、またおさしづには、『さあ/\夜泣き、子が泣く、どんな事情も諭してある。よう聞け。何にも彼も神口説き、皆ふでさきにも知らしてある。読んで分からん。どんなであろう。…(明22.5.7)』と、このようにあり、反省する気持ちでいっぱいであります。けれども、足らんな届かんな、と思いながらも、心得違いがどこかにあるのであれば、それを正しながら通らなければならないんだ、と神様が息子を通して我々夫婦に、学びの機会を与えてえくださっているのであれば、もっと真剣にこの信仰を通らなければならない、と思う、そんな毎日であります。

 昨年生まれた長女には、妊娠中に先天性の障害があることが分かりました。筋肉系の障害です。今の時代、何でもスマホで調べられますよね。いろんなところに情報が溢れております。調べようと思えば、たくさん調べられることはあるんですが、調べたら調べた分だけ、先案じと不安な気持ちでいっぱいになりますから、早々に調べるのをやめました。とにかく無事に生まれてきてくれれば、それでいいじゃないか、という話を夫婦でして、生まれてくるその日を待っておりました。

 お腹の中に赤ちゃんがいる時には、羊水に守られています。その羊水というのは、妊娠初期の頃は、母体や赤ちゃんから染み出す体液だそうです。それが16週を越えてだんだん成長する中で、主成分が赤ちゃんのおしっこに変わっていくんだそうです。おしっこと言っても、汚いわけではなくて、老廃物はお母さんと繋がっている胎盤を通って、お母さんから排出されていくそうです。赤ちゃんはその羊水を飲みながら、また胎盤から栄養を取り込みながら、少しずつ成長するそうです。

 うちの娘は、筋肉の疾患がありましたから、羊水をうまく飲むことができず、妻の羊水の量がどんどんと増えてしまったんですね。通常、800mlぐらいをピークに、羊水は出産へ向けて減っていくんだそうです。妻は入院を出産前にしましたけど、入院が決まった時には3000mlの羊水を抱えていたそうです。最終的に出産の時には、5Lから6Lの羊水を抱えて出産に臨んだ、ということです。その羊水を、注射して1L程抜くという、想像も出来ないんですが、それを出産までに2度経験したと教えてくれました。とにかく無事で生まれてきてくれれば、と思っておりました。

 迎えた出産の当日、連絡が来て朝、病院に向かいました。帝王切開と決まってましたから、手術室のすぐ隣の待合室に通されて、待っておりました。よくテレビなんかで見る描写は、赤ちゃんが生まれて「オギャー」と声がして、看護師さんが連れてきてくれて、「お父さんおめでとうございます」「男の子ですよ」とか「女の子ですよ」とか、そんな風に描写されることが多いかと思います。しかし、うちの娘は泣くこともなく、静かに手術室から出てまいりました。これぐらいの大きさの保育器の中に入って出てきました。その見た目は、すごくぐったりとしていて、手にも足にも力が入っていなくて、目もうつろで本当に生きているのか死んでいるのか、本当に見た目ではよくわからない、それぐらい衝撃的な光景でした。身体には何本かの管がついていて、口元には酸素を吸入するようなポンプなんかも近くにあったりしました。それを見ながら先生と話をしていました。こういうことでこういう症状があります、筋肉の疾患の中でもこういう病名です、というような話を、娘を挟んで先生から色々と、その場で伝えられました。

 その後、娘はNICUという、新生児の集中治療室に運ばれていきました。結果、娘はそこに3ヶ月と少し入院をしました。

 その後、今度は奥さんが出てくるので、また待合室で待っていました。その間、いろんなことを考えましたけども、とりあえず嬉しい気持ちにはなれたんです。すごく嬉しい気持ちにはなれました。するとストレッチャーに乗った奥さんが7、8人の看護師さんや病院の先生に囲まれて、手術室から出てまいりました。「お父さん来てください」と促されるままに、その輪の中に入りました。意識が朦朧としておりましたから、「声をかけてください」と看護師さんに言われて、声をかけました。「おーい大丈夫か」って、なんとも間の抜けた声のかけ方だったと思うんです。まるで谷底にいる人に声をかけるように大丈夫かって声をかけたわけであります。大丈夫なはずがありません。5Lも6Lも羊水を抜いてるわけです。そしたら看護師さんが、「お父さん、その声は違う」と私に言うんですね。もう、すいませんという気持ちで、でもなんで声かけていいかわかんないんですよ。どんな風に皆さんが声をかけたのか、知りたいぐらいですけどね。でなんて声かけていいんだろうと思っていると、また看護師さんが「お父さん、奥さんの手を握ってください」って言って、私は、こう手を握りました。握った瞬間にですね、はっと思って、ちょっと恥ずかしくなっちゃったんですよね。ぐったりとした妻の手をこう引き上げて、声をかけなきゃいけない。周りには7、8人の方。私はなんて声をかけていいかわかんない。恥ずかしい気持ちでいっぱいで、それでも絞り出すように「ありがとう、お疲れ様」となんとか声をかけ、看護師さんも納得したかのように、妻を病棟へと連れて行きました。

 本当にどんな声をかけるのが正しいのか、未だによく分かりません。次男の時も同じように、旦那さん手を握ってください、声をかけてください、となりました。妻には娘の時の話をしてましたから、妻はもうニヤニヤして私の声を待ってるわけですね。その時は言ってました、妻に「なんて声かけたらいいか俺わかんないわ。お疲れ様」とか言いながら、2人目の時はそれで乗り切ったわけであります。まだこれからそういう経験をされる方、参考にもなりませんけど、同じような思いにおそらくなると思うので、何か今から考えていた方がいいんじゃないかなと思います。

その後、娘はスクスクと育ってくれまして、今1歳と2ヶ月ですか。平均の体重を超えて、歩くことはできませんけど、それでも大きく育って、次男と同じように大きな声でミルクを要求してくれたり、そんな毎日を通っています。

 前回お話したのは、おぢばで2人子供を続けてお返しした、流産したという話をしましたけども、私たち夫婦がこの数年で学ばせていただいたのは、もたれて通ることの大切さであります。私自身もそうですが、人は諦めたり、信仰していたとしても本当にこれに意味があるのか、と疑ってしまったりします。しかし、その中に少しでも、神様にもたれて通ることができたとすれば、神様はその分、その倍の喜びを返してくれる、そのように学ばせていただきました。今後はまた娘の障害に向き合わなければいけない、そんな場面も出てくると思いますが、その時々で神様にもたれながら通らせていただきたいな、とそのように思うのであります。

 教祖百四十年祭向かう、三年千日の一年目が終わりに近づいてまいりましたが、北弘分教会ではゴミ拾いを始めました。1回しかできませんでした、それでも大きな1回であると私は思います。祭典後にゴミ拾いをしたんですけども、2人の子供がいたり、信者さんも高齢だったり、言い訳をあげれば切りがありませんが、1回しかできませんでした。次はやり方を変えて、信者さん方にボランティア袋をお渡しして、これをご自身の自宅の周りの ゴミ拾いを今後はしてくださいという風にして、来年はそのようにさせていただこう、と思っています。教会から出て、少しでも近隣の方、また出会う方に、いいにをいが伝わっていくように、年祭活動の二年目、そして三年目を通らせていただきたいと思います。

 来年も大教会の御用の上に、もっともっとたくさんの勇み心を持って、皆さんと通らせていただきたい、とそのように思い、本日の私の話とさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。

青年会総会

 去る11月25日、本部中庭にて青年会総会が執行された。コロナ以降では初めての制限なしの開催となり、夕張分会からは24名の青年会員が参加、また会員の家族等を含めると37名がおぢばに集まった。
 今回の総会では、より多くの会員に参加してもらうべく、例年の10月27日から日をずらし、土曜日に総会、日曜日に月次祭参拝が出来るよう、初めての11月開催となった。また、来てくれた会員に喜んで帰ってもらえるよう、フットサル大会、お話フェスティバル、子連れの会員向けのキッズパーク等の催し物が用意され、さらに25日夜には東西泉水広場にて後夜祭が開催された。


 夕張分会でもフットサル大会に夕張FCとしてエントリー、また分会として初となる後夜祭での模擬店出店を決めた。準備の為に主要な委員は早くからおぢばへ帰って、会員たちの受け入れに万全を期した。
 大半の会員が詰所へ到着した24日夜には、大教会長を囲んで懇親会が開かれ、鍋をつつきながら会員それぞれの仲を深め、また翌日の総会への無事参加と、フットサル大会の健闘、模擬店の成功を願って、賑やかに過ごした。


 迎えた25日、朝より詰所に集合し、分会旗を先頭に徒歩にて本部へ向かった。本部中庭は青年会員で埋め尽くされ、久々の賑わいに一同感慨深げであった。総会式では、中山大亮・青年会長様のあいさつをしっかり心に納め、真柱様のメッセージを拝聴して、改めてあらきとうりようとしてどのようにこの三年千日を通るべきか、それぞれが決意を新たにした。中庭一杯の青年会員で唱和する天理教青年会歌は格別で、感激しきりの総会であった。
 午後からフットサル大会が天理大学の体育館で行われた。チームの大半は顔も合わせた事のない即席チームであったが、あにはからんや若手中心の夕張FCは快進撃を続け、圧倒的な成績で予選リーグを突破、決勝トーナメントに進出した。準決勝で惜しくも敗退となり優勝の夢は潰えたが、3位決定戦を勝利し、全教で3位という快挙を成し遂げた。
 フットサル組の快挙の裏では、詰所にて模擬店出店に向けた準備が急ピッチで進められていた。開店までに準備できるかギリギリの状態だったが、調理未経験の会員も包丁やフライパンを握って、会員の奥さんも巻き込んで、分会総出で何とか間に合わせた。


 本部夕づとめ終了後、青年会総会の後夜祭がスタート。夕張分会は西泉水広場にて、豚丼を販売した。誰一人経験が無い中での出店であり、動き方も分からない中でのスタートだったが、スタッフそれぞれがフォローしあってポジションを微調整しながら動き、30分もするとスムーズな提供が出来るようになっていた。夕張分会の豚丼は想像以上に人気となり、開店直後より行列が途切れる事はなく、約1時間半にて見事、完売となった。一生懸命働いたスタッフの達成感は言うまでもなく、皆笑顔で後夜祭終了を告げる花火を見上げていた。
 コロナ前に総会を経験していた諸先輩方は多く卒業し、一からのスタートといっていいほどだった。その中でノウハウの無い模擬店出店は、かなりの挑戦だったと思う。それでも、沢山の人が分会の思いに賛同し、協力してくれたお陰で、大きな成果を挙げる事が出来た。またフットサルはエントリー当初メンバーが集まらず、辞退も考えたが、若い会員達が次々と名乗りを上げて、最終的には12名が参加してくれた。更に、今回の総会前後で、初席1名、中席1名、おさづけ拝戴1名、をびや許し2件と、会員や会員家族がそれぞれの信仰を深める機会を得た。非常に実りの多い総会であった。
 立教187年の本部青年会総会は10月27日(日)と決定しました。総会には多くの出会い、気付き、そして喜びが待っています。次回はより多くの夕張青年で、おぢばを賑わせましょう!            (委員長 藤﨑 勇)

冬のお楽しみ会