北海道岩見沢市にある天理教夕張大教会のホームページです。

竹田悦子インタビュー

母と同じ歳に、修養科へ

□どんな子どもでしたか

竹田:小さい時からすごく同情心が強かったのは覚えています。強く印象に残っているのは、小学校1年生のときのこと。親にお祭りに連れて行ってもらったのですが、神社の鳥居近くに、戦争で負傷した人が物乞いをしていたんですね。足のない方とかもいて、それを見てかわいそうで、お祭りのために親から初めてもらったお小遣いを渡してしまった。それを見た父が、「子どもに恵んでもらうな!自分でしっかり生きていけ!」って、その方に怒っていました。今考えれば、そんなことする必要なかったんだろうけど、父が怒ったので、とても記憶に残っています。

 

□社会人時代を振り返って

竹田:高校卒業後、千歳で銀行員を4年、その後ジュエリーショップで販売業をしていました。でも、当時は当然のようにノルマもあって、だんだんとプレッシャーがかかるようになり、職場環境にも悩んでいたりして、精神的に病んでしまって…。

 

□教会とはどういった関係でしたか

竹田:私の母が、馬追の信者、本田家のつながりなんですよ。母は、結婚する前に修養科に行って、そして嫁いで宮本(竹田悦子さんの旧姓)になりました。でも、結婚後はお道から離れていたので、そのときの私は親神様、教祖の話を聞いたこともない、座りづとめもできないような状況でした。

 

□修養科に入った経緯を教えて下さい

竹田:体調を崩している当時23歳の私に、正一会長さん(馬追分教会三代会長)が実家にいらっしゃって、修養科を勧めるんですけれども、私もチンプンカンプンで。「今の方、なんの話しに来たのって」母に聞いたら、「実は私も23歳のときに修養科に行って、それで会長さんがあなたを修養科に誘いに来たんだよ」って、言っていました。

それで、今後ことについてなどいろいろと悩んで、気持ち的に行き詰っていた私は、いま人生を見つめなおした方がいいかなと思いまして、お母さん行ったなら私も『修養』っていうか、『修行』に行きますって言って、正一会長さんが来て下さった2週間後の同月24日には、仕事も辞めておぢばに行きました。

▼たけだ えつこ 63歳 苫小牧中央高等学校卒。銀行員、ジュエリーショップ販売を歴任。現在は介護施設にて勤務。社会人時代の身上を機に修養科を志願。その後、竹田洋氏(馬追分)と結婚をし、その明るい性格で、ムードメーカーとして自教会を盛り立てている

『おかえり』っていう言葉が

初めておぢばがえりしたときの思い出は

竹田:天理に着いた次の日に、勲会長さん(現馬追分教会長)が神殿を案内してくれたんですけど、まあ広いところだなあ、くらいで。いろいろ説明してくれましたが、あまりに聞きなれない言葉ばかりで、申し訳ないのですが、正直何言っているのかわからず、ただ歩いていたという印象ですね。

 

□信仰の元一日となる出来事とは

竹田:実は、勲会長さんが案内してくれた次の日に、行けるかなと思って、一人で神殿に行ったんですよ。そして、神殿を参拝して、教祖殿に行ったら、不思議なことに急に泣きだしてしまって…。なんか、『おかえり』っていう言葉が、聞こえたんですよね。私も、「ずっと探し求めていました」みたいなことを言っていて、なぜか申し訳なかったっていう気持ちが溢れて、30分くらい泣いていました。

当時は、そこに教祖がご存命だということも、まったく知らなかったんですけど、その出来事が一番衝撃的で、それが私の元一日ですね。

 

修養科生活の思い出は

竹田:修養科でお道の話を聞いているうちに、教祖殿で泣いたときのことが思い出されて、私は前生どんな悪いことをして、教祖にお詫びしていたんだろう、なんて考えたりしました。それが、修養科の印象ですよね。

あと、夕張の同期は私以外は年配の方ばかりで、常に一緒に行動し、まさに皆さんのご用聞きという感じ。そのせいか、異性から声をかけられる様子はなく、まったく色恋はありませんでした(笑)。ただ、あんた若いのにえらいねって、いっぱい褒められましたよ。

でも、本当に楽しかった。詰所で空いている時間は、琴や笛など使い放題で、そういう楽器って触ったことないし、興味津々。そしてなにより、人生180度考え方が変わったし、天理教が大好きになりましたね。

 

教会っていいなあ

信仰をする上で影響を受けた方は

竹田:馬追の笑子前奥さん(三代会長夫人)が、これを聞きながらひのきしんするといいよって、柏木庫治先生と、筒井敬一先生のカセットテープを勧めてくれました。それを聞いているうちに、なんて明るい考え方だろうって、お二人の話がとても好きになりました。だから、いつも車内や料理しながらも聞いたり、ときには思わず泣いてしまったりとか。筒井先生が90歳のときには、直接お話を聞く機会もありました。すごい感動して、会場の最前列に座りましたね。

あと、本田家で私の叔母にあたるんですが、その方も子どもさんを亡くしながらも信仰一筋というか、そんな生き方をしていたので、馬追ならその方かなと思いますね。

 

□教会はどんな場所ですか

竹田:月次祭にみなさんでおつとめをすると、心がすっきりするというか、教会はいいなって思ったりしますね。教会関係の方には親戚が多いんですよね、だから、お互いにいろんな話したり、一緒にひのきしんしたり、そういうのがすごく楽しくて、こういう場所があっていいなってつくづく思いますよね。みんな仕事のことや、家庭のことでいろいろあったりしても、相談したり聞いてもらえる人って、なかなかいなかったりもしますよね。だから教会っていいなって、そういう風に思います。

 

□馬追の教会のカラーは

竹田:馬追の信者さんは、素直というかノリがいいというか、ときにはつっこまれたりしながら楽しく会話ができて、とても居心地がいいですよ。

 

□コロナ禍の教会の様子は

竹田:馬追は、コロナ禍でも教会在住者だけで勤めるなど自粛することなく、自己管理を徹底し、換気など感染対策をした上で月次祭を通常通り勤めていました。でも、残念なことにその期間中にご年配の方々が出直されたり、入院したり、施設に入ったりと、いろいろな節を見せていただきましたね。笑子前奥さんが出直されたのもその期間でした。

▽悦子さんが生けた、お正月の生け花。神前に艶やかな彩りを添える

▽お孫さんのために、大工の旦那さんが作成した、手作りの太鼓。太鼓本体は、悦子さんがリサイクルショップで購入

お道は、知れば知るほど素晴らしい

□年祭活動の心定めをされたんですね

竹田:昨年末から、自教会のみなさんと月一回、大教会でひのきしんをさせてもらっています。主人と話をして、まず私たち二人は必ず運ばせてもらう心を定めて、さらにみなさんに声をかけました。そしたら、すごく勇んで下さって、初回の時には、なんと10人も集まりました。若い大教会長さん夫妻なのに、何もしていないっていうのが、ずっと心にあったので、年祭活動期間中は、毎月何かさせてもらおうと思っています。

 

□過去の年祭活動について教えて下さい

竹田:100年祭は私が修養科へ行ったときですね。

110年祭で思い出されるのは、年祭活動期間中に、実父が脳出血で倒れたんですよ。そのとき、勲会長さんに電話をしたら、私たちが着く前にすでに病院に来て、おさづけを取り次いで下さっていました。そのとき実父は、手術も難しく、お医者さんからも危ない状況だと言われていましたが、おさづけで見事なご守護をいただいて、後遺症は残りましたが、110年祭にはおぢばへ連れて行くことができました。

120年祭は、子どもたちをようぼくにしたくて、別席を運んでもらうために、おぢばがえりさせていましたね。社会人になるとなかなか難しいだろうからと、その時期に運んでもらうよう心を尽くしました。

130年祭は、弟に声をかけて一緒にお参りに行けたのが思い出です。

 

□信仰を伝える上で心がけていることは

竹田:まず、不足を言わないこと。不足は切る理だから、信仰をつなぐ上では、不足を言わない、聞かせないことはとても大切だと思います。あとは、子どもに信仰の元一日を伝えることと、そして家庭円満。主人とは基本仲がいいですが、感謝を忘れた言葉遣いなども、子どもに聞かせることはできるだけせずに、夫婦の見本でいたいなと思います。どれだけ立派な話を教会で聞いてきても、家庭でそんなことしていたら違うじゃないかって思われても困るなと思って、意識していましたね。

 

□お道の魅力とは

竹田:去年、約30年ぶりに二回目の教人講習に行きました。きっと一回目と同じお話を聞かせてもらっていると思うんですけれども、当時理解できなかったことを改めて聞かせてもらうと、知れば知るほどすごいなって思います。こうやってずっとお道を通っていくことで、優しくなれる、感情を抑えられる、人のことを願える、とだんだん性格がいい人になってくるんでしょうね。本当に素晴らしいことですよね。